2012年01月23日
期待に押しつぶされたか 水竹選手 負けるな、来年もある!
第30回都道府県対抗女子駅伝が1月15日、薄日の射す京都市西京極陸上競技場を発着点として行われた。個人的には、震災後の郷土福島の子等がどのような活躍を見せてくれるかが楽しみで、スタート前からTVの前に座り込んで準備していた。映像は、岩手、宮城、福島の子等をときどき紹介し、選手たちのいささかの緊張は感じられるもののみな元気で楽しそうにウオーミングアップしている姿を映していた。彼女等の頭の中には、もはや自分が走る姿やたすきを繋ぐ瞬間しかイメージがないのだろうな。郷里の仲間や家族ましてや被災現場の場面などは描かれていないのだろうな、などと思い巡らしながら、今や遅しとスタートを待った。
12:30 京都府の山田知事の号砲で、47都道府県の選手たちはいっせいに走り始めた。スタート時の選手群も競技場のトラックを一周廻り終える頃には、数人の遅れが出始めていた。とその最後尾に、なんと期待の福島の選手がいるではないか。走り始めたばかりなのに、足をふら付かせ顔面蒼白で目は空ろであった。どうしたのかなと注視したが、映像はトップ集団に変わってしまった。放送しているアナウンサーも気になるのか、時々、福島の選手を追っていたが、どうも立ち直れなかった。あっという間に先頭集団から数百メートル離されてしまった。中継所まで辿り着けるのか、私の思いはそちらにばかりいっていた。それでもこのスタートランナー水竹は7分遅れで中継所へ倒れこんで、たすきを繋いだ。たすきが繋がったことに安堵したが、私の期待感は、スタートのグラウンドで失せてしまい、後続の選手がどんな心境で待っていたかに思いが走った。
その後2区から折り返しの5区まで区間の順位は上げる選手もいたが、トップとの差は10分を超え、46位との差も30秒離れ、折り返し点ではたすきを繋げなかった。結局、第6走者は無念の黄色たすきをかけて走った。泣きながら走っていたのではないかと胸が痛んだ。最終ランナーのキャプテン齋藤選手はさすがだった。9区だけなら13位。46位との差を4秒差まで短縮した。実力も去りことながら、福島代表として「全員の汗が染み込んだタスキを掛けて走れなかったことが悔みつつも、今回は“福島”が元気であることを全国に示すことに意味があった。その気持ちはみんなつなげた」(福島民報より)と語っていたとのこと、頼もしい福島の子等の代弁者でもあった。
スタートランナーの体調不良は致し方ない。あのマラソンランナーの中村(岡山)や中長距離の日本代表クラスの小林でさえ、今回は不調に泣いていた。ましてや、女子である。その体調の微妙な変化、責められないであろう。加えて郷土代表としての責任感などの重さも、今回に限って何時にもなく過大だったことが推察される。泣くな水竹選手。ここから立ち直るのも復興の一助。福島県民のみならず日本国民が見守っているはず。
TV観戦でいたたまれず、最終ランナーを応援しに、駆けつけた。ずいぶん前の高校駅伝依頼だった。五条西大路の四辻には多くの観衆が見守っていた。福島の最終ランナー斉藤が角を曲がるとひと際大きな歓声と応援が飛び交った。誰もが、特別な駅伝大会であることを理解していたようだ。閉会式場で福島の子等の写真を取った。あどけない中学生の顔が印象的だった。
2012年01月03日
起震車と幼子の生き様
12月24日、私が住むマンションで防災訓練があった。恒例の行事だが、地域のランドマーク的存在の当マンションの訓練は、消防署にとっても大事なイベントのようで、様々な工夫をしてくれる。今回は、AEDの実習と消火器の使い方のほかに起震車の体験講習があった。3.11の東日本大震災を受けての企画であろうが、以前にもまして関心が深かった。起震車体験訓練は、地震の強度と振動時間が大震災と同じに設定されていた。車には床に固定されているテーブル1台と4脚のイスが揃えられてあり、壁にはテレビモニターが据え付けてあった。希望者4名が募られ、私も東北の被災者を思い、挑戦してみた。
椅子につくと、スタートの声と共に、モニターには地震の予報が表示された。10数秒後に、起震車は大きく揺れ始めた。あっという間に震度7を越えた。頭上の電球は四方に振られ、被験者は固定された机の下へもぐった。4個の椅子は上下に飛び跳ね、さらに遠くに弾き飛ばされた。とても立っていられる状態ではなかった。机が固定されていなければ、被験者4人は、体験部屋中転げまわっていたのではないか。振動の強弱は周期的で、終わったかと思うとまた襲ってきた。漸く揺れが止まる頃には、私の胃袋は船酔い状態になっていた。揺れている間、何かを冷静に考える余裕などなかった。とにかく、早く揺れが止まって欲しかった。振動時間は6分間超。長い。こんな揺れを東北の方々が、前ぶれもなく突然に体験したのかと思うと、その心境いかばかりかと思う。そして、その後の大津波と原発の水素爆発。これでもかこれでもかと襲う災難。天を恨んでも余りある。それにしても被災者の冷静な振る舞いはどこから来るのか?
今年は、方丈記が書かれて約800年。鴨長明は、安元の大火、治承のつむじ風、養和の飢饉、元暦の大地震などの災害が立て続けに起きた世相から、世の「無常」を語った。また今年は、法然上人の800回忌、親鸞聖人は750回忌の年でもあり、法然上人、親鸞聖人は、「全てのものは移り行く、怠らず勤めよ(ヴァヤダンマー、サンカーラー、アパマーデーナ、サンパーデーター)。」と言う釈迦の教え(?)を伝承し、自然の無常を説いていた。そして、寺田寅彦が80年前に、日本人の自然観を概観し、日本人の精神性として「天然の無常観」を指摘した。日本人は五臓六腑の隅々まで、自然の摂理を受け入れる無常観が染渡っていると述べていた。寺田の日本の自然観や日本人観の洞察力には驚くが、これらのことを改めて知らしめたのが、今回の災害であり、東北の被災者の振る舞いであろう。
かって、某製薬会社に勤めていたころ、大学の後輩の一人が言っていた。日本人にとって、世界的に見て故郷は「京都」であるが、国内では「東北」だと。そのとき、なるほどと思ったが、今思い返すと、彼は日本人の精神性を色濃く残しているのは東北だといっていたのだろうか。感心の至りである。しかし、無常観の由来は納得できたが、天災人災によって失われたものは大きい。この喪失の悲嘆から抜け出すためには、どうすればいいのか。悲嘆を背負ってでも生きねばならない今後の、よりどころは何かをここのところずっと考えてきた。行きついた先は、無心無欲で、学び習う幼子たちの日常かと思われた。子らは、不自由な環境も、それらを受け入れ、無心に生き、疲れたら安らかに眠る。その日々の在りようと日常が、人としての原点かも知れない。抗えない天然無常は点であるが、点ではない。明日があることを信じ、今日を生きるしかないのだろう。子らの屈託のない笑顔がそれらを教えてくれる。
2011年12月17日
「誰もいねえが故郷がいい」と納得と安心
11月29日の地方紙朝刊に、福島・飯館村の老夫婦の記事が載っていた。原発事故による計画的避難地域に、指定後も住み続ける80代の老夫婦だ。行政の指導にもかかわらず、「避難したところで100歳までは生きられねえ」と言って残留したとのこと。この地に生まれ、この地で育ち、この地で作物を作り、家族を慈しみ、子どもたちを育ててきた農民だ。何よりも、自分たちを支えた大地への愛着が濃いのだろう。抗えない自然の摂理、人智ではどうにもならない事態を受け入れ、この地で静かに人生を全うしようということか。「誰もいねえが故郷がいい」と言う言葉はそんなところから出てきたものであろう。突き抜けた人生観に心を打たれた。
また、同日の新聞に、「津波で流失し、漂流してきた漂着物を丁寧に扱って欲しい」と行政に訴えた米国の元海洋学者エベスマイヤーさんの記事も掲載されていた。氏は「自分の家族が被災したと思い、漂着物を簡単に捨てたり持ち帰ったりしないでほしい」と語っているとのこと。自分のことと思い、家族のことと思って、いろいろな思いの詰まった漂着物を丁寧に扱って欲しいという、海の向こうからのありがたい声だ。交通機関が発達し、通信網が進歩した今日、津波で海を渡った漂流物を介してでも悲しみを共有しあう人間の宿業に、この地球という星に暮す人間の繋がりを感じる。
今般の地震津波と原発事故は、本当にいろいろのことを思い起こさせてくれた。一つは、以前にも書いたが、特に、人類はこの地球という星の皮相に生存していることの認識だ。地下深層ではマグマが渦巻き、常に地表をヒトの時間とは異なる時間で揺らしている。そしてもう一つは、ヒトの「見方・考え方の千差万別性」だ。同じ事実を見ていながら、まったく異なる「思い」を抱き、ときにその相違がトラブルになる。これらは現今の科学力では克服し難いものである。
殊に、「人の思い」は、その思いの原点に立ち返らないと、通い合えないということだ。今般の原発事故の人的被害について、多くの専門家が色々なところでいろいろなこと、真逆なことを語っている。それを聴く、素人の県民・国民は結局何を信じればいいのかわからないという事態に至っている。そこから生まれる不安を研究者・専門家は十分わかっているのだろうか。肩書きを背景に語る言葉には責任があるのだが…。伝え聞くこれら研究者間の齟齬のおおもとは、「日本人の持つ放射能に対するトラウマ」を正しく共有していたかどうかに依拠するように思える。
日本は、唯一の原爆被災国、その凄惨な情景は、直接的被災者のみならず、大多数の国民の共有の心情となっていると思う。原爆反対、放射能は怖いという、根底的な思いは、どんな学者にも覆せない心情と思う。そして、もう一つは、放射線の人的被害は、終局的には「がん」であることは、周知の事実。これらを否定することは、少なくとも医療者はできないであろう。これらのことから、本原発事故の説明を出発すべきであった。我々日本人の心情に根ざさないところからの、安全と危険の説明は、不安と不信しか生まないことを専門家は知るべきだ。
飯館村の老人と同様に多くの福島県民は、少なくとも、60歳を越えた我々世代が存命中には、元の環境に戻らないことを知っている。そして、我々が物言えなくなった頃から、原発の影響が出現するかもしれないことも、知っている。毒は毒と言って、示すべきであり、安全をよそわないことだ。その上で、医学的科学的な不明ゾーンの詳細な事実を説くべきだ。専門家の説明は順序と内容の不完全性で間違っていた。振り返れば、私も、かって放射性物質を扱っていた。使用に当っては、日本でも米国でも、放射性物質の危険性と安全管理の研修を先ず受けた。安全性の講義は一回もなかった。しかし、研究上必要なことから、毎日注意深く放射性物質を使用した。そのうちに、恐怖感は薄れてきた。安全に使うことにより、有用性を評価できるようになった。
メディアで解説している専門家も皆同じような教育とプロセスを経ているはず。自分が現在に至るまでの過程を振り返り、県民国民と同じ目線で、日本人科学者として語るべきだ。「誰もいねえが故郷がいい」哀しい言葉だが、福島の現状を見つめた生きざまだと思う。